pepsikohei’s blog

三重の社会人2年目が気ままに日々の出来事や考えたことについて書いてます。よろしければどうぞ。料理・お酒・劇・本・生活など

悲しい喜劇?「ノートルダムの鐘」

こんばんは、pepsiです。

今日はやっとこさ先月観劇した「ノートルダムの鐘」の話を書きます。

ノートルダム大聖堂はとても残念なことにこの前の大火事でほぼ焼失してしまいましたが、5年後の修復に向けてすでに動きがあるようですね。

とても長い道のりになりますが、粘り強く頑張ってほしいです。

 

劇の話ですが、下の絵がパンフレットの表紙でポスターにも載ってるやつですかね。

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ノートルダムの鐘

今回は、二つの感想を書かせてもらいます。

というのも観劇直後に思ったことと観劇からしばらく経ってからで感じたことが変わったからです。

 

・観劇直後

結論から言うと、私は最初フロロー(悪役)に同情しました。

なぜかというと、フロローは教えに従い精進して地位と名声を得た人物であり、

弟の子供(カジモド)を押し付けられて、世間の残酷さから守りながら育てたにもかかわらず、最終的にその子供に殺されてしまうという状況だったからです。

すげー可哀そうだと思いました。なんて理不尽なんだと。。

その上、悪者扱いされるという。

勿論最終的に、自分の思いに耳を傾けられなくなって現実から逃げるため、

自己肯定してエスメラルダを火あぶりにしてしまったのは同情の余地はないですが。

それまではいいおっさんだったと思います。

 

・観劇から時間が空いてから

観劇から時間が空くと、直後に感じた同情とかはなくなって、

冷静にこの物語が何を伝えようとしているのかに注目し始めました。

色々なテーマが込められているのですが、私が一貫して一番強く受け取ったのは

「自由」というテーマです。

この物語に出てくる主要キャラは、主人公カジモド、育て親フロロー、

隊長フィーバス、自由の女神エスメラルダです。

エスメラルダは他の3人を魅了する女性です。

なぜ、他の3人が魅了されたのか。

 

彼女と他3人の違いは、彼女は誰より自由であるということ。

主人公カジモドは鐘つきとして軟禁された状態で街を大聖堂の上から眺めることしかできない縛られた存在。

フロローは神の教えというもので自分を雁字搦めにしてしまったとても不自由な存在。

隊長フィーバスは上の指示により、自分のしたいことを抑えて戦場で兵士として命を懸けて戦う組織に縛られた存在。

 

それぞれ自由を失った男は彼女に関わるたびに惹かれていく。

フィーバスは隊長という身分を捨てて、エスメラルダを守る決断をする。

カジモドは外に出ればひどい目に合うし、フロローに逆らえば居場所もなくなるということを分かりながらもエスメラルダを救い、最終的にはフロローを殺してしまう。

二人は自分を縛るものから、自分を解放し、納得のいく決断をしたため、

結果的にはよい人生になったと取れる。

 

しかし、フロローだけは自分が真に欲することに理解を示せず、

現実逃避と自己肯定のためエスメラルダを殺してしまい、

最終的には客観的に観たら”悪”と取られる行動を起こしてしまう。

(神の教えに背いている)

この時点で、自分を神格化しており、独善的な行動となっている。

そして最終的に悲劇が起こる(義理の息子に殺される)

これはフロローにとって納得のいかない結末だっただろう。

 

再び平穏の日々が戻ると思ったら、その逆だったのだから。。

 

また、最後の問答からも「自由」がテーマとして強く印象付けられた。

 

「弱いのはお前だ、邪悪なのもお前だ!」

「言いましたよねご主人様、僕は強いって」

 

このセリフで出てくる「強い」「弱い」というのは心のことを指していて、

自由に怯えて掴めなかったフロローに対して「弱い」

恐怖に打ち勝ち、自由を手に入れたカジモドに対して「強い」

という解釈ができる。

 

つまり、カジモドとフィーバスは自由になる勇気が

あったから納得のいく人生を送れた。

しかしフロローにはその勇気がなかったから、

納得のいかぬ結末になってしまった。

 

人間、自由になるのは本当に恐いし、今まで積み重ねたものを失うことは

とても苦しい思いをする。

でももし、自分の中に沸々と湧き上がるものがあるなら、

その気持ちに耳を傾け、時にはすべて投げ出す覚悟で挑む方が自由であると感じ、

結果としてよい人生だったと思えるのかもしれない。

社会人2年目になり、色々と持ち始めた自分にとっては耳が痛い話だ。

ある人が言った。

「俺は1セントしか持っていない時の方が、金持ちになった今よりも自由だった」と。

人は持ちすぎると自由を失っていくものなのかもしれない。

 

そういう意味で、カジモドとフィーバスの物語は喜劇だったのだ。

 

以上から、この物語は悲劇ではなく、「悲しい喜劇」なのではないかと思う。

長文駄文読んでいただきありがとうございました。

私も自由になる勇気をいつまでも失わずに生きていこうと思います。

 

p.s.

「答えてほしい謎がある、人間と怪物、どこに違いがあるのだろう」

→What makes a monster, and what makes a human?

(何が怪物を作り、何が人を人たらしめているのだろう)

 

この問いに対して答えるとすれば、「心の在り方」だと思う。

ただ、この問いの突き詰めた回答はまだ私にはできない。

まだ考え続ける必要がありそうだ。